「同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。」(15:31,32)
神の御子に対する恐ろしいほど上から目線の態度に人間の傲慢さを見ます。
自分たちの思い通りに動いてくれたら信じるというのです。
人はどこに神を探すべきでしょうか。
自分が見たい場所、自分が選んだ場所に神を探しても見出すことはありません。
多くの人は、自分が考えるように、自分が望むように、神を見出すことができないので、神は不在だと結論づけます。
それがこの時イエス様の十字架を見ていた祭司長や律法学者たちです。
人は「神はこうあるはずだ」という自分が作りあげた枠組みを外して、神が人に与えられた場所に目を向けなければなりません。