「けれども、彼らはイエスを十字架につけるように、しつこく大声で要求し続けた。そして、その声がいよいよ強くなっていった。それでピラトは、彼らの要求どおりにすることに決めた。」(23:33,34)
群衆がいつも正しいとは限りません。
裁きの座につくピラトも、公正に裁く責任を感じていません。
彼の中心的な目的は、暴動を避けることだったからです。
この過ぎ越しの祭りという時を、大きな問題なくやり過ごすことができれば、それで、良かったのです。
ですから、マルコの福音書の15:15節にはこう記されています。
「それで、ピラトは群衆を満足させようと思い、バラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。」
しかし、私たちは正しい審判者である神がおられることを知っています。
やがて、神はすべてを正されます。
ですから、群衆に流されるのではなく、神の真理に立つことができますように。