「「私と一緒に来て、主に対する私の熱心さを見なさい」と言った。」(10:16)
「熱心」は「ねたみ」とも訳せる単語で、民数記に出てきます。
「「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、イスラエルの子らに対するわたしの憤りを押しとどめた。彼がイスラエルの子らのただ中で、わたしのねたみを自分のねたみとしたからである。それでわたしは、わたしのねたみによって、イスラエルの子らを絶ち滅ぼすことはしなかった。」(民数記25:11)
エフーもピネハスも暴力によって神の義をもたらそうとした人です。
回心前のパウロもそうでした。
「その熱心については教会を迫害したほどであり」(ピリピ3:6)。
しかし、パウロは後にこのように記しています。
「私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。」(ローマ10:2,3)
神の義はキリストの十字架にあります。