黙示録 22:1-5

「もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る。」(22:3,4)

主の御顔を仰ぎ見るその日、「のろわれるものは何もない」と言います。

使徒パウロはこのように言っています。

「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」(1コリント13:12)

この地上では、私たちには理解できないことがたくさんあります。

しかし、主の日に、私たちは知ることになります。

ですから、神は私たちが理解することではなく、信仰を求められます。

イエス様はおっしゃられます。

「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」(ヨハネ13:7)

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