「ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」(21節)
聖書の時代にも、様々な「器」がありました。もちろん、その「器」を何に用いるかが重要でした。使徒パウロは、こんなことも言っています。
「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(Ⅱコリント4:7)
つまり、私たちは、神の臨在に用いられる器だと言うのです。神はご自身の臨在で私たちを満たし、神の恵みとあわれみが私たちを通して溢れ流れ出ることを願われています。パウロはこの箇所で、神の真理よりも自分の哲学を教えていた人たちに警告として語っています。私たちは神のみことばによって日々きよめられる必要があります。