「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」(15節)
私たちの信仰は、単なる感情的なものではありません。弁明できる用意をすることができるものだと言います。しかし、誰かに説明することができるためには、学ぶ必要があります。そもそも自分のものとして理解できていなければ、弁明できません。聖書を学ぶことは、自分の信仰を深めるだけでなく、弁明のためにも大切なことです。
「しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」(1コリント8:1)
ペテロは、16節でこう付け加えます。
「ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。」