「この国のすべての民と祭司たちに向かってこう言え。この七十年の間、あなたがたが、第五の月と第七の月に断食して嘆いたとき、このわたしのために断食したのか。あなたがたが食べたり飲んだりするとき、食べるのも飲むのも、自分たちのためではなかったか。」(5,6節)
イスラエルの人々は、ネブカデネザル王によって滅ぼされたことを覚えるために、第五の月に毎年断食していました。神殿が建て直されたので、
「もうしなくてもいいですか」
と尋ねると、神様が、
「そもそもどうして断食しているのか」
と問い正しました。神様のためというよりも、
「自分たちのためにしてきたのではないか」
と。儀式化することの危険性は、意味を見失うということです。聖餐式も、キリストとの交わりを求めなければ、ただのパンとぶどうジュースにすぎません。神様は、
「儀式を行うことで満足していないか?あなたの心はどこにあるのか?」
と問われています。