「モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。」(35節)
「とどまり」と訳された言葉は、ヘブル語の「シェキナ」と呼ばれる、「神の栄光」「神の臨在」を現す言葉と同じ語源の言葉が用いられています。イスラエルの民の中心には、神の臨在がありました。それが、イスラエルの民を特別なものとしました。今、キリスト教会の中心には、同じように「神の臨在」、聖霊がおられます。聖霊こそ、キリスト教会を特別なものとしているものです。ですからパウロは言いました。
「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)
今日は主の日です。共に主の宮に集い、主の臨在の民として、聖霊の民として、主に礼拝を捧げましょう。