「しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」(16節)
誰も自分の努力によって義と認められるような、「救いにふさわしい人物」になることはできません。神の基準に達することは誰にもできません。多くの人は自分の悪い行いと良い行いを天秤にかけて、良い行いが勝れば義と認めてくれるということを信じ込んでいますが、聖書にはそんなことは書いていません。逆に、「われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである。」(イザヤ64:6口)とあります。良い知らせは、私たちは、「ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」(信仰義認)のです!