「こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。」(1,2節)
使徒パウロは、神のみことばを教えることに対して聖なる畏れをもっていました。異端や新興宗教は、平気で神のことばを曲げて話しますが、それは大変恐ろしいことです。LBでは、
「書かれてもいないことを、聖書の教えであるかのように思わせることも、決してしません。」
とあります。神のみことばに対する畏れは、神のみことばを教える立場にある人には必須条件です。聖書はいろいろと解釈できるという人がいますが、そんなことはありません。聖書は、自分が言いたいことにつじつまを合わせるために存在しているわけではありません。聖書には聖書の文脈があります。私たちは聖書に自分の言いたいことを読み込むのではなく、神が語られていることを読み取ります。