「こうして私たちは、私たちの神の宮をなおざりにしないのである。」(39節)
LBでは、今日の箇所をこう訳しています。
「このように、私たちは神殿をなおざりにしないことで一致したのです。」
私たちは信仰を個人的なものとしすぎる傾向があると思います。もちろん、イエス・キリストを自分の救い主として信じ、受け入れることから信仰生活は始まります。しかし、それはまた信仰の共同体である「キリストのからだ」である教会の一員になるという意味があります。教会をなおざりにした信仰生活というのは、聖書的にはありえません。イスラエルの人々は、自分と神との関係が大事だから、神殿はどうでもいいとはしませんでした。詩篇にもこういう箇所があります。
「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(133:1新共同訳)
何ができなくても、教会で共に座って礼拝を神様に捧げるだけでも、大切なことです。