「それは、私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。」(20節)
「私の身によって、キリストがあがめられることです。」
を直訳するならば、
「キリストが私の身体の中で大きくなることです」
と訳せます。キリストが大きくなると言うことは、自我の割合が小さくなることです。バプテスマのヨハネも、
「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:20)
と言いましたが、キリストが大きくなり、自分が小さくなるというのは、信仰者の心です。この時、パウロは投獄され、判決を待っていましたが、彼の心はいわゆる運命にではなく、結果的に、「キリストがあがめられること」という願いで満たされていました。私たちのすべてが、主に栄光を帰すものとなりますように。