「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、」(1節)
この箇所は、三位一体的に解釈することができます。まず、子なる神、キリストにあって励まし(または、慰め)があるようにという祈り。次に、父なる神にある愛の慰めがあるようにという祈り。そして、聖霊にある交わり(コイノニア)があるようにという祈り。最後の「愛情とあわれみ」は、「聖霊にある交わり」を解説していると理解できるかもしれません。LBでは、後半部分をこう訳しています。
「あなたがたは同じ御霊を共にいただいており、主にあって互いが兄弟であるということの、ほんとうの意味がわかっているでしょうか。やさしい心と思いやりが、少しでもあるでしょうか。」
「やさしい心と思いやりが、少しでもあるでしょうか」という問いは、いつの時代も、聖霊の共同体(教会)である私たち一人一人に投げかけられています。