「ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。『彼のよごれた服を脱がせよ。』そして彼はヨシュアに言った。『見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。』」(3,4節)
私たちはみなヨシュアのように、神の御前では、よごれた服を着ている者でした。神の御前では、私たちの正しさは、汚れた服のようだと聖書は言います。
「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。」(イザヤ64:6)
誰一人、自分の努力によって神の基準に到達することはできません。しかし、キリストは私たちの汚れた服を脱がせて義の衣を着せるために十字架にかかって死んでくださいました。イエス・キリストを信じるということはまさに、ヨシュアが体験したように、汚れた服を脱がせてもらい、キリストの血潮で聖められた義の礼服を着せていただくことです。