「アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。」(21節)
アテネ人の問題は、何か耳新しいことばかり求めていたことでした。このようなアテネ人症候群はいつの時代にもどこの場所にも起こりえます。神が何を語ろうとしているのか知りたくて聖書を勉強するのと、何か耳新しいことを聞きたくて聖書を勉強するのとでは雲泥の差があります。そのような危険に関してパウロはこのように言及しています。
「人々が真理のことばを耳ざわりだと敬遠し、自分につごうのよい話をする教師を求めて歩き回る時代が来るからです。」(Ⅱテモテ4:3LB)
キリスト教界においては、「耳新しいこと」は注意する必要があります。約二千年間の間に気づかないようなことは、ほぼあり得ません。私たちは謙そんに、「耳新しいこと」ではなく、聖書の真理のみことばに耳を傾ける必要があります。