「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(5:6)
「キリスト・イエスにあって」ということは、キリスト・イエスの中にあるということです。キリスト・イエスの中に在るかどうかが大事であり、割礼の有無ではありません。割礼はキリストの立場を決定しません。「愛によって働く信仰」ということは、「愛が働いてその存在を発揮する信仰」という意味があります。神がイエス・キリストを遣わして私たちに永遠のいのちをもたらしてくださったその動機は、「愛」でした。私たちの信仰というのは、この神の愛を通して働くものです。ですから、パウロはこのように祈っています。「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」(エペソ三・十九)信仰が働くためには、キリストの愛を知る必要があり、キリストの愛を知るためには、「祈り」が必要です。