「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。」(11:24,25)
モーセは、エジプトのファラオの娘の息子として何の不自由なく生きることができました。しかし、モーセはそれよりも、神の民とともに苦しむ事を選び取りました。これが信仰の世界です。使徒パウロも、キリストの復活の力だけでなく、キリストの苦しみの交わり(コイノニア)も知りたいと言いました。信仰の世界は苦しみのない生活を保障するものではないということは明らかです。しかし、それはこの世のどんな宝よりもはるかに価値ある人生です。ですから使徒パウロは言います。
「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」(2コリント5:7)