「もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」(15節)
人は自分が選んだ神に仕えます。「神」という言葉で呼ばなくても、自分が選んだ神を主人として仕えます。快楽を自分の神とする人は、人生の基準が、自分に快楽をもたらすものかどうかで判断します。自分の行動基準も、快楽をもたらすものが中心になります。そして自分の快楽を得るために働きます。人は結局、自分が選んだ神を主人として仕えているのです。もっとも、人は誰を神として仕えるかを選ぶことができます。イエス・キリストを自分の神として選び、仕えることもできます。ただ、私たちは自分で決断しなければなりません。主に仕えることを選ぶことができますように。