「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。」(13:1)
メソジスト運動の創始者、ジョン・ウェスレーは、この開かれた泉こそ、「キリストの血潮」だと言います。聖歌の中にこういう賛美があります。
「罪の汚れを洗いきよむるは、イエス・キリストの血潮のほかなし。
イエスの血潮、ほむべきかな。我を洗い、雪のごとくせり」(聖歌447番)
イエス・キリストは、私たちの罪と汚れをきよめるために、あのカルバリの丘の上で、その血潮を流されました。ウェスレーはまた、「エルサレムの住民」とは、福音が語られた人々だと言います。この罪と汚れをきよめる泉、キリストの血潮は、すべての人のために十分なだけ存在しています。一人でも多くの方が、キリストの血潮のきよめを体験できるように、私たちは、キリストの十字架の福音を、一人でも多くの人に伝える必要があります。