「見よ。なんという幸せなんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。それは頭に注がれた貴い油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(1-3節)
集まるということは、キリスト教が成立した当初から大切にされてきていることです。信仰は個人的な側面がありますが、集まるということを過小評価するのは聖書的ではありません。私たちがイエス・キリストにあって集まるそのところに、神はとこしえのいのちの祝福を命じられるとあります。ここに、私たちの理解を超えた世界があります。だから聖書は言います。
「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)