「幸いなことよ。主を自らの神とする民は。」(144:15)
「ヤハウェを神とする民は幸いだ」というのは、祝福の宣言です。人は結局のところ、何かを「神」として生きています。現代は「神」という言葉は使いませんが、ある人は「お金」を神とし、ある人は「快楽」を神とし、その神々に自分を捧げて仕えています。自分が何に一番時間と心を費やし、何に一番影響を受けているかを吟味すれば、自分が仕えている「神」がなんであるかが自ずと分かります。ヤハウェなる主を神として生きている人は祝福されている、幸いだと聖書は言います。もちろん、この詩は個人というよりも「民」とあるように共同体が意識されています。個人個人がヤハウェを神とするのですが、共同体として、ヤハウェを神とするところに大きな祝福があります。地域教会という共同体は当然ですが、私たちが国家的なリバイバルを祈り求める理由がここにあります。