「イエスは舟から上がって、大勢の群衆をご覧になった。彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので、イエスは彼らを深くあわれみ、多くのことを教え始められた。」(34節)
群衆をご覧になったイエス様は、岩波訳では
「腸(はらわた)のちぎれる想いに駆られた」
と訳しています。
単に「かわいそう」に思ったというレベルではありません。
心の底からいたたまれない思いになったのです。
そのイエス様がされたことは「教え」ることでした。
教会がまず提供すべきことは、イエス様の教え、聖書のみことばを教えることです。
「神のことば」には力があります。
人がもっとも必要としているものは「神のことば」です。
「キリストのからだ」であるはずの教会が「神のことば」である聖書を教えなければ、どこが聖書を教えるのでしょうか?
はらわたのちぎれる想いに駆られて教えられたイエス様は、今もご自身のからだである教会を用いて、人々に聖書のみことばを教えられます。