「しかし、イエスはもはや何も答えようとされなかった。それにはピラトも驚いた。」(15:5)
ローマ総督ピラトは政治家で、真理も正義にも興味はなく、群衆を満足することだけを考えていました。
自分に被害をもたらさない限り、どちらに風が吹いているかを気にするタイプの権力者でした。
だから、彼は何も悪いことをしていないことを知っていても、「では、おまえたちがユダヤ人の王と呼ぶあの人を、私にどうしてほしいのか。」(12節)と群衆に尋ねます。
群衆がいつも正しいとは限りません。
群衆が求めたのは「十字架につけろ」(14節)でした。
「それで、ピラトは群衆を満足させようと思い、バラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。」
ここにポピュリズムの脅威があります。
イエス様は、沈黙をもってこの苦難を耐え忍ばれました。
「静まれ、私こそが神であると知れ。」(詩篇46:11協会共同訳)
人は神を知る必要があります。