マタイ 21章

「あなたがたは、信じて祈り求めるものは何でも受けることになります。」(21:22)

キリスト教の祈りと他の宗教の祈りと決定的に違うところは、誰に祈っているかという点です。

キリスト教は天地万物を造られた創造主なる神に、イエス・キリストの御名によって、聖霊の助けによって祈ります。

ですから、「信じて祈り求めるものは」という意味は、私たちの信仰心があればということとは少し違います。

私たちが三位一体なる神を信頼しているならばということです。

誰を信頼しているかが重要です。

どんなに信仰心があっても、祈りを聞くことができない物に祈っても意味がありません。

たとえば、人間に祈っても、「祈り求めるものは何でも受けることになります」とは言えません。

限界があるからです。

しかし、不可能なことはない力ある神に祈るなら、「祈り求めるものは何でも受けることになります。」と言えます。

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