「ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。」(26:7)
惜しみなく最高のものをイエス様に捧げることは、無駄なことではありません。
最高の礼拝を捧げるため、最高の賛美を捧げるため、教会では資材を投げ打って最高のものを捧げることを心がけてきました。
しかし、いつの時代も、イスカリオテのユダのように、
「何のために、こんな無駄なことをするのか。」(8節)
と言う人たちがいます。
「貧しい人たちに施しができたのに。」(9節)
と批判するだけで、実際は施しもしません。
そんなイスカリオテのユダは銀貨三〇枚という奴隷の代価でイエス様を売りました。
大事なのはどれほどイエス様に価値を見出すかです。
イエス様は最高のものを受けるのにふさわしいお方です。
「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」(13節)