「私は困りきっています。ペリシテ人が私を攻めて来るのに、神は私から去っておられます。預言者によっても、夢によっても、もう私に答えてくださらないのです。それで、私がどうすればよいか教えていただくために、あなたをお呼びしました。」(28:15)
エン・ドルの霊媒者、この箇所の解釈は二世紀の頃から難解とされてきました。
申命記18章にあるように、霊媒が実際にまやかしでないのかどうかは別にしても、聖書は明確に禁じています。
サウル王にとって最後の望みは神ではなく、自分に油を注いでくれた預言者サムエルでした。
「何が何だか分からない神より、人間のほうが具体的指示に富んでいる」と考えたのかもしれません。
私たちも気をつけないと、このような短絡的思考に陥ることがありえます。
聖書の中から、神が語られることを聞こうとするよりも、いわゆる『預言者』と呼ばれる人から、具体的指示を求めたくなると思います。
このエン・ドルの霊媒者が、ある意味、特別に用いられたように、その『預言者』と呼ばれる人物を特別に用いて語られるかもしれません。
しかしそれは『死のことば』です。