哀歌 1:12-17

「これらのことで、私は泣いている。私の目、この目から涙があふれる。元気づけ、慰めてくれる者が、私から遠く離れたからだ。敵に圧倒されて、私の子らは啞然とする。」(1:16)

 エレミヤは涙の預言者と言われます。

ただ、哀歌は共同体的です。

個人的な嘆きが、共同体の嘆きに組み込まれています。

これは哀歌だけでなく、聖書的です。

個人的な苦しみを共同体として共有することは聖書的です。

聖書は言います。

「泣いている者たちとともに泣きなさい。」(ローマ12:15)

共に泣くことを通して、この苦しみが何かを意味するものであることを人は共有します。

しかし、「私の魂を心配してくれる人が周囲に一人もいない場合」(MSG)、苦しみは意味を失ってしまいます。

苦難に対処するための聖書的な方法は、個人的なものを、集団的なものに変換することです。

ですから教会として、祈祷課題を挙げて共に祈り合うことは互いに重要なことです。

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