「わたしはあなたのただ中に、へりくだった、貧しい民を残す。彼らは主の名に身を避ける。」(3:12)
ゼパニヤの「主の日」は、へりくだった残りの者こそが、新しい時代の担い手となると告げています。
主の審判を乗り越えた「残りの者」は、もはや自分により頼むおごり高ぶる者ではないからです。
西満師はこのように言います。
「残れる者とは、『へりくだった』者であり、『寄るべのない』(弱い、貧しい、低いの意)民で、彼らはただ主ヤハウェにのみ身を避けるのです。逆に言うならば、『高ぶり』こそ罪の根源であり、彼らは富や知恵などの自己の力に頼り、外国との同盟に頼ったりするのです。」
「主の日」は自分ではなく神に信頼する者にとっては神の愛に感動する日になります。
「あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」(17節)